はじめまして饒田です。英語を学ぶ子ども達を応援するお母さんのために「子どもの英語教育」サイトを運営しています。
学習指導要領の改訂により小学校で英語は「教科」として扱われるようになりました。その結果、世論の反応は二極化されたように感じます。
ひとつ目は、「早期英語教育」への礼賛です。とにかく子どもの頃から英語を習わせて、「英語を話せる」ようにしようという意見です。教育産業はビジネスチャンスとばかりに、いろいろなサービスを提供し始めています。
もう一つは、この流れに反対する意見です。
「英語よりも日本語が先」「バカが英語を話しても役に立たない」「日本では英語は不要」という英語不要論も目立ってきました。知的著名人の発言に後押しされて、こちらを支持する人も増えてきました。
私はどちらの意見も極端すぎると感じます。物事を単純化して大きな声で発言すると賛同を得やすいのかもしれません。しかし、賢い親ならは「どちらの意見も何か変だ」と思うはずです。
私からの提案です。
「英語を水泳やピアノと同じ習いごと」として考えてみませんか。
水泳もピアノも大人になってから習うのは可能です。子どもの時期から始めないといけないわけではありません。でも「オリンピックに出場したい」「プロのピアニストになりたい」と思うなら、それなりに時間がかかります。
英語も同じです。就職する頃に使える英語力を欲しければ、20歳までに英検準1級レベルが一つの目標になります。逆算して早めに準備しておくのも悪い話ではありません。
「英語を学ぶと日本語がおろそかになる」と考える人たちが多いことに私は違和感を覚えます。
国語力の低下を引き起こすほど、日本国内で英語漬けにするのはほとんど不可能です(海外転勤で帯同して現地校に通う小さい子どもには当てはまることがあります)。
ほとんどあり得ないほどの極論を持ち出すのは変です。それを言うならピアノも一日中演奏していれば、国語力の低下を引き起こすかもしれません。
日本人に英語は不要というのは、「海や川には行かないから水泳は不要」という理屈と同じです。そうなると世の中のほとんどの教養や習いごとは無駄であり、「何もしなくていい」ことになります。
シンプルに考えてみましょう。人間の究極の目的は「幸せでいること」です。親の役割は、「子どもが幸せになるようにサポートすること」です。
「ピアノが得意で、演奏していると幸せ」「音楽を通じてたくさんの人から刺激をもらった」「自分の演奏で多くの人に喜んでもらった」など、ピアノを習うことによって「幸せ」を感じることがあるはずです。
英語も同じです。能力・適性に問題がなければ、どんどんチャレンジしたらいいのではないでしょうか。英語を学ぶと外国の情報や人々の本音などに深くアクセスできるようになります。
私は英語が苦手なら、さっさと他の得意なことを見つけて「幸せ」を感じられるようにするべきだと本気で思っています。
他人に迷惑をかけずに、子どもが「幸せ」でいてくれれば満足です。
もし、私のサイトをきっかけに、英語教育に興味をもたれたなら大変うれしいです。